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新聞業界の苦悩 自らの首を絞める「押し紙」問題(COLUMN1)
 日本は世界でも「新聞大国」として知られている。国内の全国紙の発行部数は読売新聞の1002万部をトップに、朝日新聞803万部、毎日新聞385万部と続く。この発行部数は世界の新聞紙と比較しても郡を抜いた数字で世界トップ3を日本勢が独占している。海外では米国で首位の「USAトゥデイ」が227万部、英国の「ザ・サン」でも307万部程度だ。
 しかし新聞業界がこれまで築いてきた強固な地盤も近年では崩れつつあるのも事実。年々読者の新聞離れが進み、広告費は縮小傾向にあり、大手新聞社は軒並み業績不振に苦しんでいるのだ。そのような中、限界に近づいているのが「押し紙」という業界の悪しき習慣だ。
 一般にはあまり知られていないが、「押し紙」とは新聞社が新聞配達業務などを請け負う販売店に販売した新聞のうち、購読者に届けられなかった売れ残りを指す。印刷所で刷られた新聞はすべてがユーザーに行き渡るのではなく、廃棄される部数がかなりの割合で存在するのだ。そのため実売部数と公称部数はかなりかけ離れているのが実態で、その数は新聞社によって異なるものの、2割とも3割とも言われており、場合によっては「5割に達するケースもある」(業界関係者)という。
 なぜ新聞社はユーザーの手元に届かず廃棄されてしまう無駄な部数を刷るのだろうか。主な理由としては2つある。1つが新聞社の売り上げを増やすため。そしてもう1つが広告料を高く取るためだ。
 まず1つ目だが、新聞社は販売店契約を結んだ時点から販売店よりも有利な立場にあるため、過大なノルマを販売店に課すことがある。このノルマのうち達成できない分は、当然大量の売れ残りとして発生してしまうが、販売店は廃棄分を含んだ代金を新聞社に支払わなければならない。新聞社は売れようが売れまいが、販売店に押し付けてしまえば売り上げが計上されるが、「押し紙」の数が多くなればなるほど、販売店の経営はきびしくなってしまう。実際に元販売店と新聞社との間で「押し紙」問題をめぐって訴訟問題にまで発展している例もある。
 しかし新聞社は売り上げもさることながら、広告収入を維持するために発行部数を落とすことはできない。これが2つ目の理由だ。新聞の紙面にはたくさんの企業広告などが掲載されているが、新聞社は広告クライアントに対して公称部数をもとに広告枠を販売している。もし「押し紙」分を除いた実売部数が明らかになれば広告収入は大幅に減少する上に、「これまで水増し発行部数分の広告料を摂られていた」とこれまた訴訟問題に発展するリスクも出てきてしまう。
 これまで新聞業界で公然の秘密となっていた「押し紙」問題だが、これ以上続けた場合には販売店から、止めた場合も広告クライアントからそれぞれ訴訟問題に発展する可能性がある。ゆがんだシステムではあるが、長い間機能してきただけに、「押し紙」を廃止することは容易ではなく、業界は身動きができない状態に陥っている。



書くことの難しさ ネットの言論はなぜ質が低いか(COLUMN2)
 新聞に比べるとネット言論の質は低い――。もはや一部の新聞社幹部や研究者ぐらいしか言いそうもないことをあえて指摘してみたい。ブログやSNSに代表されるソーシャルメディアの登場によって誰もが情報を発信できるようになり、ネット上のコンテンツは膨大になった。だが、その質はネットユーザーが批判する既存メディアにとうてい及ばない現実もある。メディアを持つことで満足するフェーズはそろそろ終わりにして、質を上げる取り組みについて議論すべきではないか。
■質の低いメディアは広がらない
 メディアには、流通経路とコンテンツという2つの側面がある。ネットの普及とソーシャルメディアの登場が既存の流通経路を壊し、状況に変化を引き起こしているのは、このコラムで何度も述べてきた通りだ。
 まず、既存メディアへのチェックの目が厳しくなった。この数年、ヤラセやパクリなど既存メディアの問題がネットユーザーの手でいくつも洗い出された。最近も毎日新聞が報じた「電磁力で電力を供給する装置を展示」(http://mainichi.jp/area/kanagawa/news/20090319ddlk14040128000c.html)という記事に対し、ネット上で「まるで永久機関のようではないか」との指摘が起こり、批判や検証が行われている。
 「既存メディアの劣化」という側面はあるが、ネットのおかげで公に異議を唱えることができるようなったこと、オルタナティブな言論の登場で既存メディアが相対化され、「新聞の記事だから正確」という前提が崩れたことが理由として挙げられるだろう。
 しかしながら、ネット上の言論がこのようなマスメディア批判から抜け出せていないのも現実だ。他人の記事を批判するならまだしも、自らニュース記事を書いて発信するとなると、とたんにハードルは上がる。25日についにオーマイニュースの閉鎖が発表されたが、市民メディアと呼ばれるメディアが広がりを見せないのは、コンテンツの質が低いからに他ならない
■文章を書く技術に教則本はない
 コンテンツの質を高めるという点で、新興ニュースサイトやブロガーには大きな壁がある。
 ひとつはライティング、表現に関わるスキルが定型化されておらず、習得を困難にしているという問題だ。例えば、マーケティングの世界では4PやSWOTといった基本理論が存在しており、基礎的な能力を身に付ける手がかりとなるが、文章にそういった理論はほとんど存在しない。教則本もなく、既存メディアではOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)によって職人のように人から人に伝えられているのが現状だ。
 もうひとつは、人材が既存メディアに囲い込まれているという問題。ビジネスの世界でも、大企業にマネジャークラスの人材が囲い込まれているためにベンチャーが成長に応じた人材を確保しづらく、イノベーションの阻害要因になっていると指摘されるが、それと似ている。
 メディアが開放され、誰もが表現できるようになったからと言って、表現するスキルが急に上がるわけではない。そうであれば、企業への人材供給源としてMBAやMOTなどのビジネススクールがあるように、スキルに力点を置いたジャーナリストを教育する「場」があっていいのではないか。
■授業でニュース記事を書く
 もちろん、取り組みが行われていないわけではない。朝日新聞のように社内に学校を設けたところもあれば、一部の大学ではジャーナリストを養成するコースを開設している。ただ、メディアやジャーナリズムを名乗る科目でも、依然としてリテラシー(情報を読み解く能力)の涵養という従来型の内容に留まっていることが多い。
 既存メディアにはジャーナリスト教育のプログラムがあるが、ほとんどが「権力に切り込め」「記者クラブに頼らない」といったイズム教育に終始している。それでは近代啓蒙主義的なジャーナリズム観は身に付くかもしれないが、スキルは向上しない。
 このような日本のジャーナリスト教育への問題意識に正面から取り組む機会があった。
 昨年、北海道大学の科学技術コミュニケーター養成ユニット(CoSTEP)の難波美帆特任准教授(当時)から誘いを受け、ニュース記事の書き方をスキルとして教えながら、同時に構造化・体系化していくコース・選科B(サイエンス・ライティング)で教鞭をとることになったのだ。
 授業の内容はCoSTEPの修了生やスタッフ、知人の記者らの協力を得て練り上げた。実験的なワークショップタイプの授業を取り入れたほか、夏には合宿して集中的にライティングのトレーニングを行うなど、試行錯誤をしながら受講生とニュース記事を仕上げていった。
 受講生は半年の授業を通じて1本のニュース原稿を書き上げた。原稿は実際にニュースサイトに掲載されたのだが、そこに至るにはさらに数回の書き直し作業が必要だった。逆に言えば、授業7回と合宿では、ここまでしか書けないということでもあり、文章を書くことの難しさを改めて実感した。とはいえ、ライターの経験などなかった受講生の多くが、徐々に基礎的な力をつけていく過程を肌で感じることもできた。
■ネットに限らず質を底上げ
 このCoSTEPでの経験とマスメディア内に蓄積されたノウハウを使って、新たなジャーナリスト教育に取り組めないか。昨年末に記者や研究者らに構想を打ち明けたところ、10人以上から協力を得られ、大学生を対象にしたジャーナリスト教育プログラム「スイッチオンプロジェクト」を立ち上げることができた。この週末の合宿からプログラムはスタートする。
 新聞やテレビ、雑誌、ウェブの記者や研究者が講師役となり、15大学から参加した大学生・院生41人を受け持ち、6ヵ月にわたり企画から取材、原稿の執筆までを指導する。学生はマスメディアやジャーナリスト希望者もいるが、表現力を高めたいといった人もいる。
 この、小さく実験的な取り組みに、早くもブロガーから社会人向けのプログラムはないのかといった問い合わせが来ている。もちろんプログラムがうまくいくかどうかは分からないが、このような取り組みが各地で行われるようになれば、ネット言論のみならず、日本全体の言論の質が底上げされていくのではないだろうか。



発売前から絶えないドラクエ9へのダメ出し(COLUMN3)
 ユーザーの大人気RPG「ドラゴンクエストⅨ」へのダメ出しが止まらない。
 据え置き機と比べて性能の低い携帯機、さらにはグラフィック性能が他機種と比べて低いニンテンドーDSでの発売を良しとしないユーザーがいる。まだ発売もしていない状態から、これほどのダメ出しを食らう「ドラクエⅨ」は、本当にダメなのだろうか?
 日本ではロールプレイングゲームの楽しさを知らしめたとされている「ドラゴンクエスト」シリーズ。過去、ドラクエシリーズの本編最新作は全て据え置き機で発売されてきたが、今回9作目となる「ドラゴンクエストⅨ 星空の守り人」は、携帯ゲーム機のニンテンドーDSで発売される事が発表されるや、ユーザーからは大きな反発が起こった。
 当初はゲームシステム自体に対する反対意見が多かったわけだが、いまだに言われ続けているのが、「どうして携帯機で出すのか?」という事だ。楽しみにしていた最新作をテレビの大きな画面でやりたいという事。そしてグラフィック性能の低いDSでは期待ができないという声もある。
 もちろんこれらの中には少なからずネガキャンが入っているものもあるが、ファンとしては反対するのも当然な部分もある。ドラクエは主人公が喋らない事で、プレイヤー自身が主人公に感情移入できる配慮がなされている。主人公が喋りまくりな「ファイナルファンタジー」シリーズとは正反対の表現方法と言っていいだろう。それはゲーム内容にも言えており、FFシリーズがCGムービーを多用した演出で、決まったシナリオを一本道に進むのに対し、ドラクエシリーズはキャラクターの行動範囲をある程度自由にし、プレイヤー自身にどこへ進むかが委ねられている。
 言うなればFFは魅せる事に、ドラクエは遊ばせる事に重点を置いている。魅せるためにはある程度のグラフィック性能もないと、昔からのゲームファンならともかく、今のユーザーはついてこないだろう。しかし、遊ばせるという部分でグラフィックはそこまで重要だろうか?性能があるに越した事はないが、それが一番大事でもないのではないか。
 先日は大手通販サイトAmazonで、ドラクエ9の投稿レビューが削除されるという事態も起こった。ゲームを離れている人でも、慣れ親しんだ「序曲」を聴くと遊びたくなってしまうというほど、ゲームファンにとっては大きなソフトだけに、色々な意見があって当然だし、そうした意見が制作側に伝わりながら、次回作への参考にもなるだろう。
 しかし、批判するのは遊んでからにしてはどうだろう?性能の高さが必ずしもゲームの面白さに直結しない事は、ファンが一番わかっているはずだ。
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